「よ!セオドール!」
そう言って突如、留守を預かっていた伯父の研究室に現れたのは、部屋の主とは別の髭面だった。
「…何故此所に居るジェクト。」
「母校のバスケ部に特別コーチ。」
「ああ。」
そう言えば朝からやけに校門が騒がしかった。テレビカメラらしきものまで来ていた理由はこの男か。
「ならば体育館は東舘だ。残念だがこことは真逆だな。急ぐと良い。」
「もう終ったっつのバッケロー。今何時だと思ってやがんだ。」
言われて壁に掛けてある時計を確認した。指し示された時間は15時過ぎ。しまった、資料を読みふけっていて気がつかなかったが、いつの間にかそんな時間 か。まあ朝からやっていたなら確かに終っていても不思議は無い。それなら、さっさと帰さねば私の次の用事に支障をきたす時間ではないか。
「そうか。ならば早急に帰る事だ。」
「なんだよつれねーな。おめーはそんなに俺を帰したいのかよ。」
「そうだ。そなたがいると」
思わず出た溜息と共に、研究室のドアを横目で見た。
「見物人が増えて、邪魔だ。」
そこには取り巻きとおぼしき生徒やらカメラやら、果ては大学とは全く無関係と思われる人間までが人だかりを作っていた。
「だっはっは!俺様人気者だからなー!」
「そんな事でも自覚があるのは良い事だ。早く帰れ。」
「だーも、用があっから来てンだろが! おめーまだ手ェあかねぇのか。」
意味もなく来た訳ではなかったらしい。まあ、この場所を教えた覚えはないし、となれば態々調べ訊ねてきたのだろう。なら、何も用が無いという事もないだろうな。
「今は開いている。が、人を待っ」
「よし丁度いい!付き合え!!」
「話を聞け。」
返答の仕方を間違えた私が不覚だった。予定が入っているから手を開けている、とすべきだったのだ。だが、付き合うゆとりなどない旨をこの馬鹿に説明する時間すらない事を、時計の長針は指し示していた。いっそ殴って黙らせようかと思った瞬間、先に左手を取られた。よもや読まれたかとも一瞬過ったが、そんな筈も無かろう。
「おめー、結構運動できっだろ。」
やはり違った。
「出来ぬとは言わぬが、そなたの基準で測られても困る。」
「いちいちまどろっこしい言い方すんなって。先公に聞いたぜ? かなり運動神経いいって。」
「ならば何故私に聞く。」
「鵜呑みにするほど馬鹿じゃねーっての。あと本人の意思もいちおー確認しとこうと思ってな。よし、行くぞ。」
「何がだ。何時聞いた。断る。」
殴る間もないのか。
「たまには運動させろって筋肉が言ってるぜ! そういう訳で拒否権なし!」
さすが脳筋、発想が違った。
「用向きがあって手を開けていたのだ。そなたの道楽に付き合う時間は」
ジェクトが強引に向かおうとする人だかりの向こうで、微かな声が聞こえた。
「すいません〜、とおしてくださぁいい〜〜」
足下から聞こえる弱々しい声に、多分誰も気がついていない。私は地に額を擦れと言わんばかりに思い切りジェクトの腕を振りほどいた。何か鈍い音が聞こえた気もしなくはなかった。
「退け。」
人だかりを割る。一部で雪崩が起きたような気もしたが、呼んでもいない有象無象に使う気などない。その向こうで途方に暮れていたのは、大きな鞄をを両手にしっかりとかかえ、すっかり困惑した表情で人垣を見上げるセシルだった。
「セシル、大丈夫か。」
「あ、にいちゃん! よかったあ。」
余程困っていたのだろう。嬉しそうに私を呼んだセシルの頭を一撫でし、抱き上げて、雪崩ついでに強引に出入り口を閉めた。
「お、俺様を力づくで振りほどくとは、やるじゃねぇか」
肘を抑えて踞っている。ふと見ると横に置いてあった机の上の文房具類が無造作に散らばっている。床に頭とは言わぬまでも机に腕くらいはぶつけたらしい。別に同情する気にもなれないが。
「あ、ジェクトさん!だからあんなに人がいたんだ!」
「よう、セシルちゃんか!久しぶりだな!!」
こんにちは! と目の前のいい大人より余程立派な挨拶をするセシルを床に下ろす。
「あ、にいちゃんはい、伯父さんからあずかってきたよ。」
「ああ。済まないなわざわざ。大丈夫だったか?」
「うん。」
セシルには一抱えもあるような大きな鞄を受け取り、散らかった机の上を軽く退かしてそれを置いた。その様子を見てようやくジェクトも理解したようだった。
「なんだよ、セシル待ちだったのか。そうならそうと言えよな。」
「貴様が聞かないのだろうが。」
「お前の言い方いちいちまどろっこしいんだって。もっとスパっとモノ言えよな。」
この男を伸すくらいの反論はその気になれば幾らでも出るだろうが、セシルが横にいる所でそれも教育に良くない。見ると、セシルはくすくすと笑いを堪えていた。一つ溜息をついてジェクトを見ると、何故か偉そうにふん反り返って腰に手を当て言った。
「ま、これで用事済んだんだろ。心置きなく付き合え。ちょうどいいからセシルも見学にこいや。」
「え、どこにいくの?」
セシルが小首を傾げてこちらを見る。そういえば用向きとやらを聞いていなかったな。別にそれを察した訳でもなかろうが、ジェクトが私の顔を見て先を続けた。
「部活の連中とよ、この間の公園でガキどもにちょいと試合見せてやろうって話になったんだけどな、今日の練習で負傷者出てメンツ足りなくなった。セオドール、ツラ貸せ。」
漸く話は理解したが、私である理由はさっぱり判らない。
「他に幾らでも人材は居るだろう。」
「いやあ、みんな俺様の激しいレッスンに全力で答えてくれてよー。」
「何人伸したのだ。」
「…5人負傷、戦闘不能無数?」
「部を潰す気か。加減をしろ。」
ジェクトは豪快に笑うが、果たして笑い事かどうなのか。
「ま、そういう訳でよろしくな。セシルも見に来るだろ?」
「いく!」
「駄目だ。」
元気よく即答したセシルを即却下した私の言葉に、何故かジェクトも一緒になって不思議そうな顔をした。
「なんでよ。」
「何故お前が気にかけるか。」
「なるだろフツー。」
そういうものなのだろうか。解らぬがとりあえずジェクトは置いておこう。明らかに懇願する表情のセシルを見た。
「ここには歩いてきたのだろう?」
「うん、ちょうどいい距離だから。」
「ならばもう10分は日に当たっているだろう。なら駄目だ、試合は40分かかる。これから外で観戦などもっての他だ。」
「でもせっかくなんだから見たいよ。」
「駄目だ。明日辛い思いをするのはお前なんだぞ。」
「な、なんだなんだおい、どういう理由だ?」
ジェクトが割って入ってきた。しょんぼりと俯くセシルを不思議そうに見る。まあ、ここまで聞けば気になるか。
「この子は生来色素が薄くて皮膚が弱い。長時間日光に当たれんのだ。」
「マジか!?」
絵に描いたように驚かれた。
「メラニンを生成する力が弱いのだな。昔はアルビノ一歩手前だった。」
「や、小難しいことは一切わかんねーんだけど、要するに外で遊べねえってことか?」
「全く駄目だという訳ではない。少しずつ慣らしていく事も必要だからな。今は一日30分が限度だ。」
「つまり、残り20分か。」
ジェクトは両腕を組んで唸りをあげた。それなりに理解はしたのだろう。ややあって顔をあげた。
「よし、じゃあ第二ピリオドまで20分だけ見てろ!」
「やった!」
「やったじゃない!!」
全く理解していなかった。