辛気くさい顔して御免なさいね。ちょっとお花畑で目ェ覚ましてくるわ。待ってて。
 そう言って訊ねる間もなく去った彼女の意図が、厠か何かだろうと理解するまでに、男はやや暫くの時間を要した。厠一つとっても色々表現は有るものだな、と妙な部分に関心しながら男はそこで待っていた。
 が、5分以上が経過しても彼女は戻ってこなかった。こんな街だ。別の用途でそこが埋まってしまっているという事も考えられる。が、少し気になった。
 天を見上げる。宙天に浮かぶ月は限りなく満月に近づいている。何時もなら月齢と共に大きくなるあの声が、ここ数日は鳴りを潜めていた。この街の闇に紛れたのだろうかとも思う。何時も悪所から遠い程あの声は明瞭に聞こえてくるから。光になど染まるなと言わんばかりに。
 久方ぶりの己自信の静寂が、逆に嫌な予感を煽った。男はその場所を離れた。
 気がつくとアリシアは両手を後手に纏め縛られて、無造作に土の上に転がされていた。
               らしくもなく感傷に浸って本音を吐いてしまった自分を誤摩化すかのように、その場を離れた。ついでに、本当に小用を済ませてしまって、仕切り直ししようと天を仰ぐ。少しはマシな風を胸に入れて、正気に戻れとばかりに両手で頬を叩いた直後だった。首筋に激痛を覚え、彼女は気を失った。
 頭上には胡乱な目をした男が7人。質は上から下まで様々。中には既に性器をいきり立たせている気の早い不細工もいる。そして、その男達の中心に主のごとく君臨していたのは。
              「サラ。…リナ。」
               かつての朋輩、あの二人だった。
              「あんたたちが何考えてるのかなんて興味もないけど、このアタシにこんな真似して、タダで済むと思ってんの? あたしお客待たせてるから、早くほどきなさい。」
               起き上がるでもなく、アリシアは転がったまま二人を見下し、命令した。女王の威厳はこんなものでは崩れないと知っているから。
              「…いい気になんのはそこまでよ。『女王』のアンタは今日でオシマイなんだから。」
               茶髪の女は今までに見た事もないような冷徹な視線で女王を見下し返す。どこか胡乱な瞳で。おかしいことは見て判った。が、女王はそんな程度で動じない。
              「なぁに? あたしを輪姦す気? いいわよ、相手してあげましょう下郎共。まとめて骨抜きにしてあげる。」
               余裕の笑みで女王は笑った。リナが狂ったような金切り声をあげるのをサラが制する。
              「今更誰がアンタにそんな事するってぇのよ。喜ぶだけじゃない。」
               そう言って、サラは小さな袋に入った粉と、注射器を取り出し…ニヤリと笑った。
              「…あんた…まさか……」
              「気に入らなかったのよずっと。最初から。ガキの頃から。」
               粉を、水の満たされたそれに混ぜる。
              「その高慢なプライド、へし折ってあげる。」
               トロイアの闇全てを背負ったかのような瞳で、サラはアリシアを高く、高く嘲笑った。
「っく…!」
               下卑た男達に無理矢理身を起こされる。腕は背にある。サラに背を向けるような形で固定された。
              「お放し! 下郎ども!!」
               普段なら一撃で男達を破壊する女王の一喝も、薬で半分意識を飛ばされた男共には効果なかった。
               ヒールの音が近づいてくる。アリシアは身を捩るようにしてそちらを睨みつける。サラは、笑っていた。
              「やっと。やっとアンタが落ちるのね。これでアタシがこの街の女王よ。」
               恍惚とした表情で、彼女は言った。反吐が出る思いだった。アリシアは唾を吐く。
              「馬鹿じゃないのあんた。他人蹴落とす事と自分がのし上がる事は同じじゃないのよ。勘違いしてんじゃないよ!」
              「うるさいわね! アンタなんかに説教される言われはないのよ!!」
               乾いた音が闇夜に響いた。
               殺そうか。横面の痛みに本気でアリシアの脳裏にそういう思いが湧いた。
               可能だった。その気になればこの状況からの脱出など容易い。すぐにこいつらの手足を切り刻めるだけの手段を自分は持っている。だが、そんな事をすれば流石に猿を決め込んでいるトロイア城の憲兵も動く。そうなれば狭いあの街、隠れる事など出来ない。もう、あそこには居られなくなる。だから、それだけは選択肢から外していた。だが――。やれと、月に囁かれるような、そんな錯覚を覚えた。
               先に動いたのはサラの方だった。
              「ね、アリシア。馬鹿な抵抗はしないでちょうだいね。出ないと先に、あの男からやるよ?」
              「…? 何言って…」
               ふい、とサラが視線を逸らした先。追うように見ると、そこにいたのは。
               銀の髪、紫の瞳。脇を捉えるかのように固める3人の厳つい男共よりまだ背の高い、その姿。
              「っ!なんで…!?」
               狼狽した。自分の立場も二つ名も忘れて狼狽した。その姿を見て、悪女二人が高く笑う。アリシアは二人を殺さんとばかりに睨みつけ、怒鳴る。
              「あの人はあたしと無関係だよ! 放しな!!」
              「あっはっは! 馬鹿言うんじゃないわよ! そんな醜態さらして、どこが無関係なのさ!!」
              「っ…!」
               唇を噛む。確かに、これでは無関係どころか、まるで惚れた男だと言わんばかりの反応だ。どうするべきなのか一瞬見失う。自分以外の誰かに大して何かを思う事など、アリシアには経験がないのだ。混乱する思考を逆撫でするように、リナがけたたましい声で笑った。
              「ねー、どうせならいっぺんにやっちゃおうよ。」
               どこか無邪気ささえ漂わせる女をアリシアは睨みつける。
              「そっちのでかい男に打っちゃうの。アリシアはそれを見ながら犯されるの。惚れた男の前で。男が壊れるのを見ながら。ね、面白いでしょ?」
               あまりにふざけた発想に、怒鳴り声すら出なかった。リナは再び耳に不快な甲高い越えで笑う。サラも続くように笑った。
              「それ、いいわね。」
              「でしょ?」
               サラはそう応え、注射器を男の足下へと転がした。虚ろな目をした下僕の一人が、緩慢な動作でそれを拾い上げた。
              「ちょ…!あんた達本当に気ィ触れてんじゃないの!? 無関係な人巻き込んでどうする気よ!!」
              「気なんかとっくに触れてるわよ!!」
「アタシはアンタが堕ちればそれでいい!アタシはあんたの存在が、憎くて憎くて仕方ないのよ!!!」
髪を振り乱し狂気する様は、鬼も悪魔もとおりこしていっそ人らしいと、そんな事をアリシアは呆然とし、考えていた。
 
               服が裂ける音に正気づいた。下着ごと裂かれ、組み敷かれる。豊かな乳房が揺れた。だがそんなことはどうでもよかった。視界の端に入る彼の人を囲む男共。拾い上げた注射器を目の前に挙げ、その先から空気を抜く。じわり、と濁った液体が針の先から出る様子が、驚く程鮮明に視界に映った。
              「お客さん逃げて!!!」
               それだけ叫んだ。自分など今更どうでも良い。生きる事になんてとっくに悲観していたんだ。だけどこの人だけは駄目だと思った。 何があっても駄目だと、何故かそう思った。どうしたらいいか判らなくなる。威厳も誇りも何もかも忘れて絶叫する中で。
               静かな声が響いた。
「静まれ。」
 呪が解けたように、喧噪は静まり返った。
               アリシアもまた、呆然と声の主を見つめていた。
声の主の足下には、彼を拘束していた筈の3人の男達がかしずいていた。
「…お前の言う通り、人の心を支配する事等、容易いものだな。」
               微か伏せた目でそう言った。そして…アリシアを見て、笑った。
「何時までそうしているつもりだ?」
              余裕。
              威厳。
              貫禄。
 自分など足下にも及ばない、堂々としたその姿にアリシアは悟った。
               この人だ。
               この人こそ。
あたしが求め続けていた人だったんだと。